付き合ってあげてもいいかな
みわx環
ほぼGemini翻訳
もっと素直になればよかったのに。
もっと努力すればよかったのに。
甘苦く絡まり合った結び目をほどいて、平行線に戻ると決めたはずなのに。 なぜ、今更後悔しているのだろう。
過去を弁解することも、結び目を結び直すこともできず、分かっているのに。なぜ、潔く退場できないのだろう。
――そんな想いを抱えたみわ、覚悟の表情が静かに崩れていった。
どうしてなのか、自分でも分からない。
せっかく整理して封印したはずの想いが、大好きな恋人の流す涙に濡れ、浸食され、水を吸った段ボールのように、そのふやけた形を脆くも崩していく。胸を突くその波動が、危ういほどに強まっていると気づいた時には、目の前の小さく震える、泣きじゃくるその小柄な身体を、思わず抱きしめていた。抑えきれない体温が、そのまま相手へと伝わっていく。
「環ちゃん……!」
――悲しみのままに墜ちていく環は、不思議な温もりにそっと抱き留められた。
ロマンチックな解釈を苦手とする脳が、本能のままに、重なり合う体温に潜む想いを鋭く感じ取った。
埃の舞う灰色の都市は、雲の隙間から差し込む一筋の陽光に照らされ、崩壊を止めた。世界はもはや、指先の奏でる音符に寄り添う哀しみのままに回るのではなく、理性の及ばない暖流によって、新たな風貌へと塗り替えられていく。震えながら熱を帯びた全身で、この世界にまだ自分の居場所があることを感じていた。涙はまだ流れているというのに、悲しみだけが、ふいにその足を止めた。
「み……みわ……」
謝らないで。謝らないで。
言い淀む唇の間にこぼれ、形を失ったそれは、たしかにお互いの心の中に存在していた。ただ強く抱きしめさえすれば、そのありふれていて、平凡で、けれど愛おしい言葉を、鼓動を通じて感じることができた。
「今度こそ……」
――あなたをちゃんと愛する。
§
あの日以来となる初めてのデートは、微睡みを誘うような小雨の午後に始まった。
みわはあの騒動を冴子に告げることはなかった。立て直したばかりの心は、期待と不安、そしてどこか麻痺したような高揚感の中に、独り浸っていた。
メッセージだけの距離に一度は踏みとどまり、心に溜まっていたわずかな気まずさをやり過ごす。通話ボタンを押すよりも早く、まるで同じタイミングで心を整えていたかのように、環ちゃんの方から先に着信が届いた。
それから数分後、二人は裏門へと続く小径を歩いていた。雨が上がった合間を縫って、学校を後にする。
今日の環ちゃんは、ラフな白いロゴTシャツに、ジャケットではなく亜麻色の薄いライトアウターを羽織り、チーク材のような深いブラウンのチェック柄ロングスカートを合わせていた。いつもとは違うその装いは、もしかしてこっちの好みに寄せてくれたのかな。
少し緊張しながら顔を合わせたとき、環ちゃんから嗅ぎ覚えのない香りがすることに気づいた。重なり合うフルーティーさとフローラル、彼女のイメージとはどこか重ならないその香りが、なんだか不器用で愛おしい。けれど、ネイルの色だけはお揃いだったの。
「あの、……変、かな?」
じっと見つめていたことを誤魔化すのは、みわにとって容易なことではない。特に恋人の前では。もっと素直になろうと決めたばかりなのに、みわは無意識に首を横に振り、照れる環ちゃんに合わせてこう言った。
「ううん、環ちゃんにすごく似合ってるよ」
「本当?」
「それに、すごくいい香りがする。新しい香水、買ったんだね」
「……ん、まあ」
頬を少し赤くした環ちゃんは、猫のように背を丸めて頷いた。素っ気ない返事も、猫特有の距離感に似ている。冷え込んできた空気を埋めようとみわが新しい話題を探していると、うつむいたままの環ちゃんが言葉を継いだ。
「選び方がわからなくて、みわがいつもつけてる香りを……なんて」
「え……?」
不意の羞恥心に、みわは虚を突かれた。頬がボッと音を立てるように熱くなる。ホッとしたことに、環ちゃんはうつむいたままで気づいていない――と思いきや、猫みたいな姿勢こそ変わらないものの、視線だけはこちらを盗み見ていた。顔を火照らせたみわは、慌てて狼狽したような微笑みを浮かべる。
「そ、そうなんだ……うん、ミドルノートの香りは、確かに私の好みかも」
環ちゃんの香水をきっかけに話を振ってみたものの、こうした話題は彼女にはあまり響かないだろう。そう察したみわは、話を早々に切り上げた。次第に色濃くなる花の香りに乗せて、みわが午後の予定へと話題を転換すると、かわいい子猫のように丸まっていた環ちゃんもようやく背筋を伸ばした。
再び、肌をなでるような微かな雨を感じた。目的のビルまでは、あと半ブロック。早く屋根の下へ行かなきゃと、みわは会ってからまだ触れていなかったその小さな手を直感的に握りしめ、小走りで横断歩道を渡った。「わっ」と声を漏らして、環ちゃんも足早に追いかける。一瞬よぎった驚きは、熱いフライパンの上でとろけるバターのように、心地よく香ばしい喜びへと変わっていった。
「よかった、そんなに濡れずに済んで……」
自然に握りしめた手は、安堵とともに自然に離されたが、その直後、不自然なほどの羞恥心が込み上げてきた。だが、みわのそんな動揺よりも、環ちゃんの反応はさらに濃いものだった。環ちゃんは、みわに握られていた方の手をどこか物思いにふけるように見つめている。さっきまで緊張で強張っていた眉間の力がふっと抜け、再び笑みを織りなしたその顔は、あの日以前の――もっと前、恋に落ちたばかりの頃のような表情に戻っていた。
ようやく咲いた恋人の笑顔に、みわはしばし見惚れてしまい、いつの間にか自分まで頬を緩ませていた。ふわふわとした頭に残っているのは、「お昼、ここで食べようよ」「あたし、サンドイッチが食べたいな」なんていう環ちゃんの、かわいくて少しわがままな声ばかり。ハッと気づけば、二人はビル内のカフェにある窓際の席に座っていた。
ランチは、食感こそ微妙なものの味は悪くないキッシュと、野菜がこれでもかというほど詰め込まれたサンドイッチ。自分の皿にある数口つけただけのキッシュよりも、みわは目の前の光景に釘付けだった。サンドイッチの包紙を両手でしっかりと握り、小さな口で大きな食べ物に幸せそうにかぶりつく環ちゃんの姿だ。小柄な環ちゃんはもともと可愛らしいけれど、恋人フィルターを通して見るその姿には、言いようのない癒やしが溢れていた。
「お腹が空いてるから美味しいのか、それとも元々の味が良いのかな……。みわも食べてみて」
環ちゃんはサンドイッチを一口分ちぎってキッシュの皿に置くと、ソースのついた指先をぺろりと舐めてから、ティッシュで拭った。その何気ない仕草にみわの鼓動は跳ね上がり、視線は無意識のうちに環ちゃんの唇へと吸い寄せられていった。
キスしたい。
反則なほどにかわいい環ちゃんに、今すぐキスしたいの。
……でも、しょっぱいものと甘いものが混ざった食べ物の味に邪魔されたくない。ああ、でもやっぱり、したいの。
ふぅ――心の中でわざとらしくため息をついて、お皿の上のキッシュで、この気持ちをごまかそうっと。
本体から切り離されたそれは、もはやサンドイッチの一部というより、二枚の小さなトーストの欠片が、三倍ものレタスと分厚いハム、そしてちょっとしたアクセントを辛うじて挟み込んでいる何かのようだった。その隙間に控えめに忍ばされた黄金色のソースは、酸味と塩気のバランス、そしてシャキシャキとした食感のどれをとってもキッシュを上回っている。みわは、心の中で星四つの評価を下した。
時折交わされる視線からは、探りを入れるような甘えの気配が感じられた。表向きは、後輩である環ちゃんがテーブル越しに愛情を求めているようにも見えるが、実際には双方が無意識のうちに、あるいは意図的に合図を送り合っているのだ。足先が意味のない暗号を刻み、滑らかな視線が絡み合う。もはや、口に運んでいるものがどんな味なのか、それすらも分からなくなっていた。
少し甘めのフルーツティーと、香りの強いラテが交互に入れ替わる。まるで恋を知ったばかりの少女のように、間接キスという事実に胸を高鳴らせて。ストローからは伝わってこないはずの唇の感触が、記憶の中にある湿り気と柔らかさを、自分の唇の上にそっとなぞるように呼び覚ましていく。
足先から再びトントンっと暗号が伝わり、こちらも同じ強さとリズムでそれに応える。曖昧に交わされる視線は、緊張に震える胸を幾度となく溶かしていくけれど、その奥にある鼓動の在処に触れそうになると、彼女は途端に怯んでしまうのだった。
細い雨に打たれる窓を、ひとすじの透き通った雫が伝い落ちていく。みわは羞恥と恐れが混ざり合った気持ちで背を丸め、彼女の凝視に自分の表情が露見してしまわないよう願うばかりだった。
環ちゃんは、みわが反射的に軽く握りしめたその手の甲を、指先でつんと突いた。彼女の注意をこちらへ向けさせると、口角をいたずらっぽく上げて言った。
「ねぇ、何を期待してるの?」
目を丸くしたみわが慌てて答えを返すのを待たず、小さな手のひらが五指を開いて、自分より少し大きなその手を包み込む。指をそっと絡ませる恋人繋ぎで、彼女はこう囁いた。
「エッチ」
一滴、また一滴──窓の外の雨は、しっとりと温もりを帯び、滑らかなガラスを伝い落ちていく。その雨粒は、あの低く、どこか主導権を握るような声に促されるかのように、次第にその数を増していくようだった。
スマホの通知音が、心地よく高まっていた熱を掻き乱した。赤面したみわは、どこか間の抜けた声で「あ、スマホ……」と呟きながらそれを手に取る。この場を凌ぎ、熱くなった頬を冷ます絶好の機会だと思ったのに、届いたメッセージの送り主は、あろうことか目の前に座る恋人からだった。
『みわの反応、エッチでかわいいすぎ』――画面越しでも、雨音や彼女の声が聞こえてきそうなその文字列に、環ちゃんと指を絡ませていたみわの体は大きく跳ねた。顔を上げると、環ちゃんのもう片方の手は確かにテーブルの下に隠れており、おそらくそこでスマホを操作しているのだろう。
否定ではない、緊張に震える首振り。溢れる唾液を飲み込む。繋いだままの手からは、羞恥の汗がじわりと滲み出していた。先輩として、テーブルの上の攻防ではすっかり後手に回ってしまったみわは、せめてもの反撃としてスマホを手に取る。
『全部、環ちゃんのせいだよ』
『どう責任取ってほしいの?』
『うぅ』
『手汗、すごくなってきたね』
『うぅぅ』
『ねぇ、どうやって責任取ってくれるの?』
反撃どころか、結局は環ちゃんの仕掛けた罠にまんまと嵌まり、さらに翻弄されるだけだった。
『みわってば、先輩なのにかわいいすぎ』
恥ずかしさで一言も返せずにいるのに、メッセージが次から次へと舞い込んでくる。
『抱きしめたくなっちゃう』
それは窓の雨を導く重力のように、抗いようのないもの。
『可愛がりたいな』
抗いたくない。
『想像した?』
そうして、ガラス窓を伝い落ちる雫はさらに増していく。
『ねぇ、想像したの?』
しっとりと濡れて、外の景色さえも見えなくなっていた。
「ふふっ……手のひら、本当にびっしょり」
いつもと少し違う服からは、どこか愛らしい不器用さが漂い、それでいて普段とは異なるその趣は、自然に溶け込んでいる。環ちゃんの誘惑には、みわが恐れている義務感というものが微塵も感じられない。柔らかな雨に打たれるように、彼女の心の防壁は、恐れを忘れて少しずつ解き放たれていくようだった。
皿の上のキッシュはあと二口ほど残り、ラテもフルーツティーもまだ底が見えないまま、食事を早々に切り上げた二人は店を出た。環ちゃんは、みわの汗が止まらないその手を迷わず取り、化粧室へと向かう。目的地に近づいて、ようやくそこがトイレだと気づいたみわの内で、不安が不意に大きく膨れ上がった。
「環ちゃん、ちょ、ちょっと待って……!」
環ちゃんは足を止め、顔を真っ赤にして躊躇うみわを振り返ると、取り繕う気さえない平坦な声で言った。
「飲みすぎちゃってトイレ行きたいんすー。みわ先輩付き合ってくださいよー」
「それ、棒読みじゃない……!」
一度決めたら誰にも止められない環ちゃんに押し切られ、みわは半ば強引にトイレへと連れ込まれた。幸いにも中は無人だ。芳香剤の香りが熱くなった顔を包み込んだかと思えば、数秒後には木製ドアが閉まり、鍵がロックされる音が響いた。
カチャリ、というその音は、まるで二人をトイレから、ビルから、ひいてはこの世界から切り離してしまったかのようだった。静寂の中に押し寄せる焦燥感に、みわは思考を整える間もなく、慌てて口を開く。
「環ちゃん、あの……あ、そ、そうだ、トイレ……なんじゃないの……」
奥側にいたみわが場所を代わろうとしたが、環ちゃんにそれを制された。
「……とぼけないで。本気で、しちゃうよ」
環ちゃんは視線を逸らし、眉を愛らしくひそめる。その声には、心の奥まで浸食してくるような熱が宿っていた。
「本気……?」
みわは舌の根元に溜まった唾液を無意識に飲み込む。脳裏には、潤いを帯びた淫らな想像が次々と浮かび上がった。
「うん……今ならまだ、ちょっとからかうだけで済ませてあげる」
つまり、ここで意地を張ってとぼけ続ければ、環ちゃんはこのままビルの女子トイレでセックスをする。環ちゃんの視線は照れくさそうに泳いでいるが、その声色と表情は、明らかに、スイッチが入ってしまっていた。
熱の籠もった静寂が、ロビーから流れる音楽やアナウンスを遮断する。二人の吐息に、熱く火照ったみわはゾクりと鳥肌を立てた。心地よい痺れに誘われるまま環ちゃんを抱きしめたいのに、体は言うことを聞かず、ただその場で細かく震える。微かに伏せられた瞳に映るのは、期待を込めて待ち、それでも反応のないみわを少し臆病そうに伺う環ちゃんの表情だった。
ああ、しくじった──そんな消極的な思考が声になるより早く、毅然として、それでいて柔らかな力が前方から温かく包み込んできた。
「みわ、震えてますね……」
その熱を帯びたメロディは、不安に沈むことなく、温かな湿り気を纏って滑らかに舞い上がった。
「そんなに私から抱きしめてほしいんですか、かわいい」
環ちゃんの低く柔らかな声が、広がりつつあった怯えを溶かしていく。そのおかげで、みわはようやく腕を上げ、彼女を抱き返すことができた。自分から動けるようにと、あえて距離を空けて待っていてくれた環ちゃんを、力いっぱい抱きしめる。
「ほしい……」
見えない窓を伝い落ちる雨の滴は、涙のようでもあり、情欲のようでもあった。心に流れ込んでは、身も心も飲み尽くすような炎へと変わっていく。みわは、焼かれるような醜い熱に耐える力を得るかのように、ただひたすらに環ちゃんを強く、強く抱きしめた。
「環ちゃんに本気で、抱かれたい……!」
涙で潤んだ瞳の先で、仰ぎ見る環ちゃんと視線が交わる。みわは安堵したように腕の力を緩め、ラテの香りが残る唇に、心に広がる醜い影を拭い去ってもらうべく身を委ねた。唇が重なった瞬間、怯えながらも伸ばした舌が、もう一つの柔らかな温もりと擦れ合い、絡み合い、驚きと喜びに震える短いデュエットを経て、やや急き立てられ、口内へと戻っていった。
小柄な体で顔を上げ、口づけをねだる環ちゃんは、右手をおもむろに動かし。まずは安心させるようにみわの背中を撫で、その手は一撫でごとに下へと這っていき、スカートが腰のラインを形作るあたりで、手のひらを波打つようにゆったりと躍らせる。時折、ふっくらとした胸元に触れたかと思えば、今度はスカートの中へと侵入せんばかりの動きを見せた。
夢心地のような喜びが、さざ波となって体に打ち寄せる。これほど深く、溺れるような接吻はいつ以来だろうか。みわは幾度となく小さく震えた。やり場のない熱い欲情に突き動かされ、みわは恋人の口内に満ちる甘い蜜を、いつものように求めて舌を這わせる。
これまで受け身でしかなかった環ちゃんが、今は積極的に舌を絡め、交わし合っている。そして、わずかに早まったリズムに乗って、彼女は攻めに転じるステップを力強く踏み出した。みわの舌を、再びその口内へと押し戻すように。
時を同じくして、上下に揺らめいていたあの手も、互いの接吻から溢れ出た滑らかな蜜を纏ったかのように、滑り込むようにしてスカートの中へ、体温の籠もった秘所へと辿り着く。環ちゃんの舌を含み、吸い上げるみわの体は甘く痺れ、接吻を妨げない程度の力で、弱々しく首を振った。
愛する人に触れられたいという切望と、嫌われたくないという羞恥心が激しくせめぎ合う。二つの感情に引き裂かれたわずかな隙間から、悦びに濡れた涙が零れ落ちた。
「もう、こんなに濡れてるよ」
柔らかな蜜の中で、指先が弄ぶように泳ぐ。
「環ちゃん……」
甘えたような声が、場違いな罪悪感を溶かしていく。
「しーっ。誰にも見つかっちゃだめだよ」
銀の糸を引く桃色の丘が、流れ星の輝きを飲み込んだ。
「──みわはあたしのもの。そんな声を聞いていいのは、あたしだけ」
そして、溢れ出した。
§
文字通り、雨上がりの晴天に恵まれたデートなら最高だったのに。霧雨の降る涼やかな天気も悪くはないが、せっかく決めたコーデを調整するのは少し面倒だし、香水の香り方も湿度で変わってしまう――確か、瑠奈たちが話していたっけ。
何はともあれ、一度こうして気持ちを切り替えた以上、ぐずぐずしている理由なんてどこにもなかった。
正直に言えば、少し怖い。
この数日間の空白が、ただの妄想だったのではないかと。
メッセージで近況を確かめ合ってはいても、実際に顔を合わせない限り、恐怖は拭えない。
もう、置いていかれたくない。
今すぐ、彼女に会いたい。
白いニットのセットアップを纏い、まるで一片の雪のように優雅に揺らめく彼女に。
犬塚みわ、私の女。
……そして同時に、私を手に入れた女。
「香水の香りが――」
実際にみわの前に立ち、その完成された目眩く空気感と香りに心身を奪われて初めて、環ちゃんは世界に溶けてしまいそうな剥離感から解き放たれた。彼女の耳は、恋人が紡ぐ言葉のすべて、そのアクセント、さらには甘えたような終助詞までも的確に捉えていく。心地よい音が両耳の間を響き渡り、満たしていくことで、彼女はようやく確かな実感に喜んだ。
雨の降る空も、豆やデリの香りが立ち込めるカフェも。再構築された日常の会話のなかでは、ほんの一拍が過ぎ去る刹那にすぎない。
再び満たされた心の奥から、不思議なほど確かな充足感が湧き上がってきた。
「ラテもおいしい――」
料理が届いてからというもの、急激に熱を帯び始めたその視線に、気づかないはずもなかった。というより、可愛らしく向けられる、それでいて完璧に隠せているつもりでいるその情熱的な眼差しを、無視できるはずがないのだ。
だから、こちらも思わず応えてしまった。
意図的な指舐め。二人だけに伝わる足尖の触れ合い。光を浴びる絡み合う指と、影に潜む囁き。
あの日受けた傷がまだ癒えていないせいか、情欲に疼く傷口からは、膿とも蜜ともつかぬものが溢れ出している。それを愛だとロマンチックに解釈してしまえば、脳も体もふわふわと悦びに浮き足立つ。
情欲は高まり、これまでの限界をとうに超えていた。
生まれて初めて覚える過剰なまでの愛欲に、その小さな体は今にも爆発しそうな火山と化している。
みわが、それほどまでに愛おしいせいだ。
「ちょっと待ってよぉ──」
聞きたいのは、これじゃない。
「トイレなんじゃないの──」
分かりきったとぼけ顔でもない。
「本気で抱かれたい──」
とっくに決まっていたことでもない。
「あ……!ん……んんっ……!んぅ……っ!」
これだ。
ベースを弾くその指で奏でる、みわの音色。
予想以上に濡れた音符には少し驚いたが、怖くはない。ほんの少しだけ手を伸ばせば、みわと一緒に陶酔に浸る自分の姿が、想像できた。
二本の指が、柔らかな曲線をなぞりながら這い回り、音色が最も響き渡るところをいとも容易く手探り当てた。立ち位置と角度に阻まれた腕は、微かな機械的往復を繰り返すことしかできない。だがそれだけで、感度の良いみわは何度も、ひどく震え上がる。重なる唇は何度も堪えきれずに離れ、そのたびに呻きを含んだ温かな吐息を浴びる。なんて芳しくて眩いんだろう。
白いニットを抱く手は彷徨い、距離を置きたくないがために、環ちゃんは少し策を講じた。触れるか触れないかの距離で相手を翻弄し、より強く自分を抱きしめるよう仕向けたのだ。体温を貪るみわがその通りに動くと、環ちゃんは腰に添えていた左手を流れるように離し、目の前の白い服を大胆に捲り上げた。
「わぁ……っ!」
濡れた旋律がその瞬間、滑稽なほど不協和音を奏でる。だが、環ちゃんの決意が揺らぐことはなかった。右手の二本の指は、恋人の最も柔らかく敏感なところに吸い付くように這い回り、左手は香気が立ち込める体熱の中で素早く動く。服が落ちてくるその隙に、勝負を仕掛けたような藤色のレースブラを、やや強引に引き下げた。
「待って……んっ!ふ、ふぅん……っ!」
みわのうめき声とドア外の足音が重なり、環の頭には動きを潜めるという選択肢が浮かぶ。だが、高ぶった感情はすぐさま、隠し立てするような考えを否定した。それどころか、もっと大きな声で鳴かせてやりたい。まるで、燃え上がってしまいそうなこの二人きりの世界に、天外の何かをこの世界へと叩きつけ誘う、そんな声を上げさせるように。
いつ誰に踏み込まれてもおかしくないという不安。だが、露見することさえ二人の関係を肯定する証明になるのだと思えば、同時に昂揚感が突き上げてくる。手首に溜まった怠さは激しい鼓動へと昇華し、光を湛えた唇と舌が湿熱の中で断続的に絡み合う。わざと引かれた銀の糸が、次第に重さを増していく吐息を誘い出した。
「環ちゃん……っ!あ……!はぁ……っ!」
ドア外のジャーという水音やバッグを弄る音に混じって、わずかに訝しむような声が漏れ聞こえる。だけど、抑え込んできた感情を解き放ったみわは、環ちゃんの愛撫にすべてを委ね、環ちゃんもまた外の気配など聞こえない振りを貫いた。熱気の立ち込める個室には、みわのうめき声と二人の深い接吻、そして、濃厚な水音を立てて絡み合う艶めかしい音だけが響き渡っている。
羞恥に震えながらも悦びに身を浸すみわの姿は、実際の行為そのものよりも環ちゃんの心を激しく突き動かした。いつしか、指を柔らかく包んでいた潤いは彼女の体温へと溶け込み、唾液となり、汗となり、羞じらいを帯びた温かな雫となって溢れ出す。スカートの内で湿り気が広がっていく中、みわは急激に増した震えとともに、未だ踏み入れたことのない領域へと辿り着いた。
「ふぅ……!はぁ……!環ちゃん……すごい……」
汗の香りを滲ませた吐息が顔をかすめ、指先は満ち潮の海岸に沈み込む。絶え間なく押し寄せる、柔らかで温かな波のうねりをその指に感じていた。恍惚と色香の混じり合ったみわの満足げな表情を、環ちゃんはうっとりと見つめる。波濤の奥深くに沈んだ指は、無意識のうちに、ただ愛おしむようにごく優しく擦り続けていた。
外では二、三人ほど人が入れ替わり、おそらくは個室の中の情事を察していただろうが、誰一人としてノックをしたり、咎め立てる者はいなかった。二人の欲火が世界を焼き尽くすのを、ただ放任しているかのようだ。満たされることのない愛欲は形を変えて暴走し続け、環ちゃんはついに、二人が閉じ込められたこの方寸の地を、自らの手で打ち破らざるを得なくなった。
温もりに包まれていた手を離し、再び恋人の体を抱き寄せると、環ちゃんは赤らんだ顔をみわの乱れた胸元に埋めて、低く囁いた。
「みわの家、行きたい……いいかな?」
「うん……いいよ」
逸る情欲を互いの香水の香りでそっと覆い隠し、二人は身なりを整えてビルを後にした。余韻に浸るみわはどこか落ち着かない様子だったが、環ちゃんの視線はその可愛らしく辺りを見渡す横顔に、じっと注がれていた。
みわのマンションまではそう遠くはなく、歩いても十数分程度の距離だった。空はさっきまで雨が降っていたとは思えないほど明るく、だが空気中の湿り気など、二人の間で舞い踊るロングスカートの湿り気に比べれば微々たるものだ。見慣れた街並みが近づくにつれ、体の中から滲み出る紅潮は、より一層その色を濃くしていく。
部屋に入り、ドアが閉まりきるよりも早く、環ちゃんは無防備なみわを仰ぎ見るようにして口づけを落とした。二人はそのまま、縺れ合うようにベッドへと向かう。今朝わざわざ掃除したばかりの床に鞄が落ち、重い音を立てた。その響きが、急速に昂ぶっていたみわの意識をふと現実に引き戻す。みわはわずかに唇を離した。それに気づいた環ちゃんが名残惜しげに舌を引くと、互いの吐息を感じる距離で、唇を寄せたまま彼女は囁いた。
「汗、かいてるから……先にお風呂……」
吐息が混じり合うほどの間近では、その表情の全貌を捉えることはできない。それでも、今のみわが堪らなく魅力的な表情をしていることだけは確信できた。二人の唾液に濡れた唇で、みわの唇を愛でるように軽く擦り合わせると、環ちゃんは低く、どこか色気を孕んだ声で返した。
「このままがいいよ。これが好きなの。みわの匂いがする……」
みわは照れ隠しに首を振ろうとしたのか、唇をわずかに左へと動かしたが、抗いきれずに恥じらいに染まった様子で、小さく頷いた。
恋人の前で服を脱ぎ捨てたみわの身に残されたのは、藤色の勝負下着だけだった。豊かな乳房は灯りの下で白く艶めき、ミルクのような甘い錯覚を抱かせる汗の香りが、えも言われぬほど艶然と漂う。一方の環ちゃんはライトアウターとロングスカートを脱ぎ捨て、Tシャツにショーツという、まるで同棲中の彼女のような姿でベッドへと這い上がった。
みわは今度こそ自分が主導権を握ろうと意気込んでいたが、汗ばんだ体は、しなやかな黒猫のように動く環ちゃんにあっさりと組み伏せられてしまう。環ちゃんはそのまま彼女の胸元に滴る汗を、愛おしそうに舐めとった。
「ん……っ!ふぅ……っ!」
再び高まった昂ぶりは、環ちゃんに口づけられた肌に沈殿する暇さえ与えられない。柔らかく心地よい唇は、先ほどまで執拗に弄ばれた乳尖へと辿り着き、膨らみきった愛欲をその口内へと含み、啜り上げた。
みわの意識は焦ったそうに環ちゃんの熱いリズムを追いかける。二人の拍動は滑らかで熱く蕩けそうなかすがいとなって重なり合い、それと同時に、環ちゃんの指は彼女の脚の間へと新たな戦場を切り拓いていく。
これまでは愛撫や前戯だけで満足していたはずの環ちゃんだったが、みわの想像以上に積極的で、その手慣れた仕草はどこか彼女を不安にさせた。ゆえに、愛撫と舌先に弄ばれる体がいかに快楽で震えていようとも、みわは荒い息の合間を縫って、曖昧な問いを投げかけた。
「環ちゃん……っ、はぁ……なんだか、いつもと違うね……。上手になったっていうか……」
「うん。一応、勉強はしてきたから」
「勉強……?」
胸元のこねこは、ぷはっ、と音を立てて震える乳尖を解放した。愛らしく顔を上げ、探るような視線を向けるみわと目を合わせると、「ちょっと待ってて」とだけ言い残してベッドを降り、上着からスマホを取り出す。ピッポッという操作音の後、環ちゃんは起き上がったみわの隣に潜り込み、横向きで動画を再生したスマホを彼女の目の前に差し出した。そこには『彩純先生のレズセックス入門』という、直球すぎるタイトルが表示されている。
「この子、凄いんだよ。同じ大学生なのに、十何人もの女性と経験があるんだって」
「じゅう、じゅうなんにん……!」
「経験豊富だからかな。教え方も、すごく分かりやすいんだよね」
画面の中でいきいきと愛撫の仕方を解説する彩純先生を、みわは呆然とした様子で見つめている。環ちゃんの視線がモニターに向けられていたのは最初だけで、やがてそれは、甘く赤らんだ恋人の横顔へと静かに移っていった。
もし以前のように、想像できないからと足踏みしたままだったら、みわのこんなにも可愛らしく、煽情的な表情をいくつも見逃していただろう。ほんの少しの努力で想像の及ばない空白を埋めてしまえば、たとえそれが付け焼刃の真似事であっても、これほど劇的な結果をもたらしてくれる。
何はともあれ、彩純先生の教えには感謝してもしきれない。
「みわも興味があるなら、入門編のテクニック、全部試してあげようかな?」
「ちょっと待って、『全部』って聞き捨てならないんだけど……!」
「大丈夫。あたし、頭いいから。コマンド表は全部覚えた」
「コマンド表って……っ、ん、ぅ……!」
期待と、甘いゾクゾクに揺れるみわの言葉を遮るように、昨夜入門編の単位を取得したばかりの環ちゃんが唇を塞いだ。開かれた五指は流星のごとく藤色の幕の下へと墜ち、二つの指腹が乳尖に軽やかに寄り添うと、緩急をつけて力強く弄び始めた。
環ちゃんの表情も仕草も、真剣そのものだった。重なる唇の熱も、ブラの中に滑り込んできた愛撫も、そのすべてから深い愛情が伝わってくる。みわの脳裏に、あのビルの女子トイレでの出来事が鮮明に蘇った。外の世界で、環ちゃんに初めての絶頂へと連れて行かれたあの記憶。身体はすでに環ちゃんによって刻み込まれてしまったかのように、熱く火照った太ももをギュッと閉じれば、羞恥に濡れた蜜が心地よく溢あふれ出した。
彩純先生が一体何を教えたのか、動画のすべてを観たわけではない。けれど、環ちゃんの唇と舌、そして双手に弄ばれ、幾度となく絶頂を繰り返すなかで、みわはその答えを甘美なほどに身体へと刻みつけられていた。
窓辺に橙色の光が差し込む頃、素肌のまま布団にくるまったみわは、ようやく解放された情熱の余韻の中で、満足げに身を委だねていた。久しぶりの連続絶頂は、心の奥底に積もっていた不安や憂いを根こそぎ浚い、代わりに強烈な愛の熱が、眩い光となって全身を駆け巡る。その光の壁の一つひとつに、愛しい恋人の眼差しと面影が、確かに映し出されていた。
汗ばんだ肌で余韻に浸るみわをベッドに残し、小さなポニーテールを揺らす環ちゃんは、一足先に浴室で軽く体を洗ってきた。シャツ一枚だけを引っ掛けて、下着はベッドに脱ぎ捨てたままの姿で、満足げに戻ってきた環ちゃんを見て、みわは思わず顔半分を布団に埋めてくすくすと笑い出す。セックスの最中だったか、それとも終わった後だったか、いつの間にか結ばれていたその小ぶりなポニーテールが、たまらなく愛おしくて、彼女の心を華やがせた。
「ほら、まだ寝ていたいの?」
「もうちょっとだけだもん……」
「仕方ないなあ」
環ちゃんが身をかがめてみわの髪を撫でると、汗を吸って肌に張り付いたシャツから、小さな胸の曲線がいたずらに浮き上がり、一糸まとわぬ下半身がその角度から際どく覗いた。みわが体内に残る環ちゃんの余韻に抗い、ようやく熱のこもった布団から這い出した頃には、彼女はもうすっかり下着を穿き直してしまっていた。
少しがっかりした様子のみわは、物憂げに両手を伸ばすと、ベッドの端に腰掛ける環ちゃんを後ろから抱きしめた。左肩にそっと顎を乗せ、触れた体温を確かめるようにその腕に力を込める。まるで、この愛らしい黒猫がどこかへ逃げてしまわないようにと願うかのように。
「大好き。愛してる」
溢れ出したままの愛の言葉が、飾り気もなく、愛しい人の耳へと流れ込んでいく。
環ちゃんはお腹に回されたみわの手に片手を添え、もう片方の手でみわの頬を優しく撫でた。そして、まぶたを閉じ、こぼれるような笑みを浮かべながら、喜びを隠しきれない声でゆっくりと囁いた。
「あたしも、みわが大好きだよ」
黒猫の腹を包んでいた両手は、ゆっくりと重なりを解き、一方は一回り小さな掌と指を絡ませ、もう一方は汗の香りが残る太ももの上で、気ままに揺らされる。
「私と結婚したいくらい好き?」
その問いに、こねこはまるで人の言葉がわからないふりをするように、上半身を悠々と左右に揺らした。何度も繰り返される「ねえ、言ってよ」という甘えた声に、わざとらしく「うーん」と悩み抜く声を漏らす。それからようやく、頬を少し膨らませた恋人の方を振り返り、悪戯っぽく笑って告げた。
「もし本当に法律が変わったら、こんなに可愛いみわと結婚してあげてもいいかな」
恋に落ちたその瞳を見つめていると、甘く突き出された唇に、たまらず口づけを落としていた。
唇の熱が伝わるのと同時に、胸の鼓動が、かつてないほど鮮やかな新世界を形作っていく。
ああ――あなたともう一度恋ができて、本当によかった。
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